後悔のその先に

 LOOP58。船内にはもう二人の人間しか残っていない。否、正確には“人間は一人しかいない”。
「……よう。お前と俺だけになっちまったな」
 目の前に立つ男がおもむろに口を開き静寂を破る。何度もループを繰り返しているは、グノーシアとなった彼とも何度か対面している。だが目の前の彼は見たことのない表情をしていた。
「ああ、グノーシアだぜ俺ぁ。気付かなかったか?ハッ、やるじゃん俺」
 そう言った彼の表情は、言葉とは裏腹にとても悲しそうに見えた。笑っているようにも、泣いているようにも見える。
 リンネは彼がグノーシアであることに気付いていた。一日目の議論で、彼の嘘を見抜いてしまっていたのだ。自分はこのループでは乗員であり、グノーシアを告発しなければならない立場だ。しかしリンネにはそれができなかった。それどころか、何度か庇い立てまでしてしまった。
 何度もループを繰り返す中で、彼……沙明に惹かれているのを、リンネはこの時はっきりと自覚した。
「これでお前まで消しちまったらさ。また俺、一人っきりになっちまうんだよな……」
 リンネはハッとした。彼が一人遺されることを恐れる理由をリンネは知っている。過去のループで本人の口から教えてもらったからだ。
「……なあ。このままじゃ、俺はお前を消しちまうよ。衝動がさ。自分でも抑えられねェんだ」
 知っていたのに、それなのに。自分のエゴで余計に彼を苦しめることになってしまった。
 フッと視界が暗くなる。自分の体のはずなのに、段々とその輪郭が分からなくなってくる。考えることもできなくなり、ただ聴覚だけが震える彼の声を捉えた。
「俺は……どうしたらいい?教えてくれよ、なァ……」
 パチンッと何かがはじける感覚がして、すべてが消えた。
 
 
 
「……リンネ……リンネ
 セツの呼びかけに、リンネはハッと我に返った。声のほうへ視線を向けるとセツが心配そうにこちらを見ている。
 前回のループでグノーシアである沙明の手により消されたあとの記憶が朧気だが、どうやら新しいループが始まっているらしい。リンネは自室でセツと二人っきりの状態だった。
「大丈夫かい?随分とぼんやりしていたけれど……顔色も良くないみたいだ」
 セツの声色はとても優しく、労りに満ちていた。
「ごめん、前回のループの余韻が残っていたのかも。大丈夫だよ」
 心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じ、リンネはセツを安心させようと努めて明るく答えようとした。しかしそれは逆効果だったようで、セツは余計に眉をひそめてしまった。
「本当に?無理はしないでほしい。何かあったらいつでも言ってね。ああ、もちろん、話したくなければ無理強いはしないよ」
 リンネの顔がくしゃりと歪んだ。セツの飾らない言葉の一つ一つが胸に沁みる。リンネは自分の心がだいぶ弱くなってしまっていることを自覚し、顔を伏せて小さく息を吐いた。
 リンネの表情の変化にセツも気付いているはずだ。しかし追及することなく、静かにリンネを見つめている。
「どうしよう……セツ……」
 俯いたまま絞り出した声は、リンネの想定以上に震えてしまっていた。リンネの肩にセツの手が触れる。なだめるようにセツの手はリンネの肩を撫でていたが、続けて出た彼女の言葉を聞きその動きはピタリと止まった。
「私、沙明のことが――好きみたい」
 リンネが言い終わると、室内に静寂が広がった。恐る恐る顔を上げてセツを見ると、目を見開き口を開けたまま固まってしまっていた。眉間にはくっきりと二本の皺が刻まれている。
 セツがこんな反応になってしまうのも無理はない。セツは沙明のことが苦手なのだ。つい、“やってしまう”ほどに。
「私は今……良くない聞き間違いをしてしまったのかな」
 そうであってほしいと、祈るような声色でセツが言うのを聞いて、リンネは申し訳なさそうに首を振った。その様子を見ても、セツは信じられないという風な表情だ。
「そう……か。君が選んだ人なのだから、彼にもきっと良い部分が……ううん……」
 リンネの告白は、セツにとって到底理解できないことのようだった。それでも、顔を手で覆いぶつぶつと呟きながら、なんとか受け入れようとしてくれていた。
 しばらく自問自答が続いて、ふとセツが顔を上げた。
「私は汎だから、恋愛に関して同じ気持ちを分かち合うことはできないけれど……でも、相手はともかく、誰かを好きになることは、別に悪いことじゃないだろう?」
 相手に関してはやはり考え直してほしいけど……と小声で付け足しつつも、セツはリンネの気持ちを肯定してくれた。
 セツの気遣いはとてもありがたかった。けれど、自分がしてしまったことへの罪悪感からは逃れられなかった。この暗い気持ちを、ループの海を共に泳ぐ大切な相棒へ隠しておくことはできない。
「前のループで、私、沙明の嘘に気づいたの。沙明がグノーシアだって気づいてた。それなのに、彼を庇ってしまった……無意識に」
 震える声で話すリンネに、セツは静かな眼差しを向けている。
「これからももしかしたら同じようなことをしてしまうかもしれない……それが、怖い……」
 リンネたちは今、この終わるともしれないループから抜け出すために、賢明に情報を集めている。そのためにも、自分の役割を全うしなければならず、そこに私情を挟む余地があってはならないのだ。
 これからのループで、彼……沙明をコールドスリープさせなければならない、あるいはグノーシアの立場で消さなければならない時がくるかもしれない。果たして、自分にそれができるのだろうか。リンネはその時を想像して息を呑んだ。
リンネ、聞いて」
 それはとてもとても柔らかく、優しい音だった。その音が耳に届くのと同時に、リンネの体がぬくもりに包まれる。
「ループを抜けるまでは、苦しい時が続くかもしれない。けれどいつか、必ずループは終わる。いや、二人で終わらせるんだ」
 リンネを抱くセツの手に力がこもる。
「ループが終われば、私たちはどんな未来でも選択できる。……彼との未来もね。だから今は、なんとか耐えてほしい」
「……どうして、そんなに……優しくしてくてるの?」
 こんなにも自分勝手な人間なのに。ずっとループに囚われたセツも、つらい状況であることは同じはずなのに。
「大切な人に優しくするのは当たり前のことだろう?それに君だって、私を励ましてくれたじゃないか」
 そう言いながらセツは笑みを向けてくるが、リンネにはセツに救われた記憶しかなかった。セツとリンネのループは同じではない。この先のループで機会が来たら、その時は全力でセツを救おうとリンネは心に決めた。
「船内にグノーシア反応を検知いたしました。乗員の皆様は速やかに――」
 船内に響くLeViの声を聞き届けると、セツはリンネから体を離した。すぐ側にあった温かさがなくなり、少し心許ない気持ちになる。だがセツに視線をやると、温かい眼差しがこちらへと向けられていた。
「行こう」
 優しく、けれど力強いセツの声に背を押され、リンネは顔を上げ歩き出した。

 メインコンソールにやってくると、そこにはすでに見知った顔たちが集まっていた。もちろん彼の姿もある。ちらりと一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らした。
 もう悩んだりしない。目標は唯一つ、このループを終わらせること。励ましてくれたセツのためにも自分のためにも、今はただ賢明に、自分の役割を全うしよう。
 Loop59。セツが口を開く。
「議論を、始めようか」